今年の元旦、1月1日の朝。私は初詣に行く前に、まず墓参りをしました。実家の近くにお墓があることもあり、機会があれば必ずお墓参りをしています。
お墓があるのは、30基ほどの小さな墓地です。大きな霊園のような賑やかさはありません。それでもその朝、私のほかに4組のご家族が墓前で手を合わせていました。誰も大声で話すわけでもなく、ただ静かに、淡々と、合掌している。新年の朝にあの静けさがあることが、私は少し嬉しくなりました。目立たないけれど、確かにそこには「報恩感謝」の時間が流れていました。
新年になると、多くの人が神社へ初詣に出かけます。私も初詣は大切にしていますし、神社で願い事をすることを否定するつもりはありません。むしろ、節目に手を合わせること自体が、忙しい日常の中で心を整える良い儀式だと思っています。
ただ、年が明けるたびに私にはひとつの問いがあります。
「新年に最初に手を合わせるべき場所は、神社やお寺だけでいいのだろうか」と。
そして、さらに言えば――まず向かうべき場所は、ご先祖が眠るお墓ではないか。私はそう考えています。なぜなら、私という存在は、ご先祖様がいて初めて成立しているからです。
親がいて、祖父母がいて、そのまた親がいて……。単純計算で十代さかのぼれば、その世代だけで1,024人。現実には親戚同士の婚姻などで系図は重なっていくので、人数は理論値より少なくなるのが普通ですが、それでも「自分は一人で生きているのではない」という事実は変わりません。
自分一人が生きているのではなく、生かされている。
私は真言宗で得度した際、法名をいただいており、秀浄(しゅうじょう)と申します。仏教には「ご縁」という言葉がありますが、この言葉ほど人を謙虚にしてくれるものはないと感じます。努力はもちろん大切です。しかし努力できる身体も環境も、今日ここで息をしていることすら、数え切れない縁の積み重なりの上にあるのです。
墓参りは、お願い事をする場所というより、まず「お礼」と「報告」を言いに行く場所です。「今年もこうして生きています、ありがとうございます。」「昨年はおかげさまで、家族が健康に過ごすことができました」。そうすると、たくさんのご先祖様が、「よく来たね。この通り、あなたの味方はこんなにたくさんいるんだから心配ないよ」と声をかけてくださっている気がするのです。
お墓参りを「お礼」と「報告」の場にしますと、初詣や寺社参拝は「誓い」の場になるのです。もちろん、ご先祖様と同様、「お礼」と「報告」をすることはOKです。
「ここまで来られたことに感謝します。だから今年は、こういう姿勢で生きます」
「支えてくれている人たちに恥じない一年にします」
神社とお寺、そしてお墓参り。どれが上という話ではありません。役割が違うだけです。墓参りは「先祖供養」「お礼」と「報告」、そして自分の存在を確かめる時間。寺社参拝は、その上で一年の方向を定め、社会の中で生きる自分を整える時間。だから私は、新年の順番として「まず墓参り」を大切にしたいのです。
もちろん事情があってお墓へ行けない年もあるでしょう。そのときは仏壇でもいいし、亡くなった親族の写真でもいい。静かに合掌して、「お願いします」より先に「ありがとうございます」と言ってみる。たったそれだけでも、新年の空気は変わります。
元旦の小さな墓地で、静かに手を合わせる人たちを見ながら、私は改めて思いました。派手ではないけれど、この始め方は一年の歩き方をぶれにくくしてくれる。だから今年も私は、合掌から始めたいと思います。


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