先週11月14日(金)、長男・次男と三人で食事をしていた時、長男がふと口にしました。
「コロナ明けくらいから、父さん、なんだか悟りを得たみたいな雰囲気があるね」と。
冗談めかした一言でしたが、不思議と胸の奥にすとんと落ちました。
思えばあの頃から、「自分のために」よりも「誰かのために」を拠りどころに決断・行動することで、仕事も人間関係も、違う景色を見せ始めていたのです。
私の「誰かのため」は、まず親としての責任から始まりました。
子が社会に出るまでにできることは全部やる。後になって「もっとこうしてあげればよかった」という後悔だけは残さない。その決意が、ひとつの軸になっていました。
東日本大震災の後、私が経営に携わっていた会社が法的整理となり、家計も厳しい時期がありました。
長男の塾代が引き落とせず、なんとかお金をかき集めて茶封筒に月謝を入れ、塾に届けたことが二度ほどあります。
今となっては懐かしい光景ですが、長男は驚くほど鮮明に覚えていて、「父さんはいつも約束を守った」と言ってくれました。
子どもは親の言葉よりも、背中を見て学ぶのだと知った瞬間でした。
私は高野山真言宗で得度し、法名「秀浄」を授かっています。それでもなお、心の中で悟りを得ることは容易ではありません。
家庭や会社といった小さな枠の中では、感情や利害が波を立てやすい。
だからこそ、一段上がった視点で「より広い円にとって善い波を生むか」という基準を持つようにしています。
「誰かのために」という同心円は、家族から始まり、社員、顧客、取引先、地域社会へと広がっていきます。円が一つ広がるたび、意思決定のスケールも変わります。
短期の損得ではなく、「より広い調和に資するか」を問い直す。
その一呼吸の間に、選択の序列が入れ替わることがあるのです。
遠回りに見えた決断が、後から確かな信頼として返ってくる。それは“見返り”ではなく、静かに循環し始める“返り”と呼びたくなるものです。
経営の現場ではスピードと成果が求められます。「広い円」を持ち込むことが、優柔不断の言い訳になってはいけません。
私は、時間は嘘をつかないと信じています。
人の評価も、会社の評価も、短期的には過大評価や過小評価が交錯することがよくあります。
しかし、長期的には必ず本質にそった評価に収束します。
短期的には見せかけで取り繕うことができても、時間の経過とともに中身が充実していなければ、遅かれ早かれ正しい姿が現れ、正しい評価に収まります。
あの茶封筒の質感はいまも私の基準の錘(おもり)になっています。
できない理由を並べず、できる方法で約束を守る。
足りなければ、足りない中で最善を尽くす。
その姿勢は子の信頼を支えただけでなく、仕事でも通用する作法となりました。
誠実さは波動の解像度を上げ、即応は波形を澄ませます。
結果として、組織の雰囲気が明るくなり、人が自発的に動き出すのです。
悟りなどと大げさなことを語るつもりはありません。
今日も、深く息を吸い、静かに吐きながら、自分の波動の基準を確かめます。
目の前の人の良さを拾い、判断の前に「誰かのため」を置く。
その小さな所作の積み重ねが円を外へ押し広げ、仕事と人生に澄んだ循環を生みます。
それが、今の私にとっての等身大の“悟り”です。

コメントを残す