永野芽郁さん、田中圭さん、錦織圭選手──。
ここ最近、有名人たちの「不倫」がメディアやSNSで連日取り沙汰されている。深夜のホテル出入り、車内での親密な様子、それらをとらえた写真が週刊誌に掲載されると、ネット上ではたちまち炎上し、謝罪や降板を求める声が飛び交う。まるで社会全体が“道徳警察”と化したかのような騒ぎである。
だが私は改めて、こう問いかけたくなる。
これは本当に報道の自由なのか?
そしてこの構図は、世界的に見ても当たり前のことなのか?
■ スイスで見た、「報道しない自由」の成熟
私は1997年から2000年までスイスで生活し、今週もスイスのビジネスパートナーやスイスの投資家と直接面談を行うため、チューリッヒに滞在しています。ここで、あらためて感じることは、スイスでは芸能人やアスリートの私生活を報じる“スキャンダル記事”をほとんど見かけないということです。
不倫や交際の有無といった極めて私的な話題が、雑誌やテレビを賑わせることはない。理由はいくつかあります。
人口が少なく、芸能界が巨大産業ではない。ゴシップへの関心が薄い。しかし、それ以上に根本的なのは、「プライバシーは絶対に尊重されるべき人格権である」という社会的コンセンサスと法制度が強く根づいている点です。
■ 法律が守る「撮られない権利」
スイス連邦憲法13条は、明確にこう記しています。
「すべての人は、私生活、家庭生活、通信および自己に関する情報の保護を受ける権利を有する。」
さらに、スイスは欧州人権条約(ECHR)の加盟国であり、ECHR第8条「私生活の尊重」も国内法として効力を持ちます。
この条項に基づく欧州人権裁判所(ECHR)の判例では、たとえ著名人であっても、私生活に属する情報を無断で暴露する行為は重大な人権侵害とされます。
つまり、パパラッチのような手法で張り込み、尾行し、望遠レンズで撮影して雑誌に掲載すれば、それだけでメディア側が敗訴するリスクは非常に高いのです。
■ 一方、日本では「撮る自由」が優先されている
対照的に、日本ではいまだに「真実であれば報じてよい」「有名人なのだから覚悟すべき」という声が根強い。だが、それは報道の自由を都合よく使った“興味本位の正当化”に過ぎないのではないでしょうか?
芸能人やアスリートは、公務員ではありません。税金で報酬を受け取り、公権力を行使している政治家のような「公人」ではないのです。
あくまで、民間の契約と演技やアスリートとしてのパフォーマンスによって評価される「著名な私人」である以上、プライベートの恋愛や家庭の問題までメディアが晒し続ける理由は、本来極めて薄いはずです。
週刊誌が「公共性」「社会的関心」などと主張することもありますが、恋愛や不倫にどれほどの公益性があるのでしょうか?
読者の“興味”と、社会に資する“公益”は決して同義ではないはずです。
■ 最も問われるべきは、私たち自身の“消費行動”
では、なぜこうした報道が日本では後を絶たないのか。
それは結局、私たちがそれを“読みたい”と欲しているからに他ならない。
記事が読まれ、拡散され、テレビが視聴される限り、メディアはそれを「ニーズ」として供給し続ける。
つまり、芸能人の私生活を報じるという行為には、私たち消費者の側にも責任があるのです。
■ 終わりに──スイスで感じた、成熟した空気
日本には日本の報道文化や社会の空気があります。すぐに何かを変えることは難しいかもしれません。けれど、スイスのように「撮られない自由」「報じない配慮」が当たり前に存在する社会から、私たちが学べることは少なくないはずです。
好奇心を持ちながらも、誰かの人生を消費しない。
そんなバランスを私たち自身が意識し始めたとき、日本の報道の在り方も少しずつ、より健やかなものに変わっていけるのではないかと思うのです。





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