昨年は私が共に働いた方の冥福を祈るとともに、故人と私自身の思い出を綴り、おかげさまで多くの方にコラムを読んで頂きました。ありがとうございました。
今年も命日の前日10日土曜日に、みずほ銀行、オオテモリにある慰霊碑に献花し、参拝してきました。
私は、1994年6月に父が他界したため、比較的若い時期からお墓参りをする習慣がつきました。毎年、お盆や正月に広島の実家に帰省すると、必ずお墓参りとお墓の掃除をしています。墓前では、ご先祖様への感謝と心の中で“長男は何度失敗してもチャレンジしてる”とか、“次男は試行錯誤しながら、成長してます”とか、ご先祖様へ近況報告をしています。
また、お墓参りをする墓地には、いつも思わず拝んでしまう墓石がいくつもあります。墓石に刻まれた文字は、1943年から1945年が多く、“南方(フィリピン、ガダルカナル諸島、ジャワ島等)で死ス”とあり、年齢は18才から21才くらいの若い方ばかりです。
結婚して、家庭を持ちたかったのではないかな、子どもが欲しかったのではないかな、好きな人と旅行に行きたかったのではないかな、短い人生で終わってしまった悔しさは、計り知れないものだと思います。翻って、自分はなんと平和で幸せなことか。
私も自分で会社を設立したのが2003年で、その後、リーマンショック、東日本大震災で、自分のビジネスは、何度ももうダメかと思うことがありましたが、この墓石を見ると、“お前は生きているだけ幸せじゃないか”と仏様が話しかけてくださっているようで、墓地に行くたびに、勇気と元気を頂いています。
10日にオオテモリの慰霊碑前にある献花台に献花し、手を合わせると、故人の方々の顔が目に浮かび、“お子さんともっと一緒にいたかっただろうな”、“せっかくNYにきたのだから、米国内をもっと旅行したかったんじゃないかな”、“NYでもっと仕事をしたかったのかな”、想像すればキリがないほど、やりたいことがあったにも関わらず、突然、生きることを奪われた無念は、とても言葉では表すことができません。
日常生活では、家庭の問題、教育の悩み、人間関係の問題、職場でのトラブル、様々な悩みや問題があり、何も悩みも問題もない人などいないと思います。慰霊碑や墓石に名前が刻まれた方からすれば、生きていること自体がありがたいにも関わらず、人間は贅沢なので、もっとお金を、もっと快適さを、もっと社会的地位を、など欲にはキリがなく、ついつい、生きていることの有り難さを忘れてしまいがちです。
私にとって、9.11は生きていることの有り難さを教えてくれる記念日であります。
最後に中村天風先生のことばを引用して、記念碑に合掌します。
“だからただ一途に、生きていることに感謝して生きることにしようじゃないか。それでもわからなかったら、自分に聞いてみろ。『俺は生きているか?死んでいるか?』これ笑い話のようだが、大きな悟りだよ。とくに、病のときや運命に阻まれたとき、よりいっそう、この気持ちをはっきりもつようにしなさい。『どんな辛いことがあったって、生きてるんだ』ただもう、理屈抜きでそう思いなさい。ああでもねえ、こうでもねえ、滑った転んだっていう理屈がなんだい。小さな頭の中の脳髄のもつれから出ただけのことじゃねえか。そんなことはなにもいらないんだ。ただ、生きてることをありがたいと思って、どんな場合でも『ああ、生きてる』これでいい。
(出典:「信念の奇跡」中村天風述、監修:公益財団法人天風会)
追記:ご遺族の方をはじめ、OB、OGの方々で、私が知っていることを聞きたい方がいれば、いつでもお話しますので、是非ご一報ください。
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