人は仕事によって育つ(読了目安時間:7分)

企業経営において、最も重要であり、同時に最も難しい課題の一つが人材育成です。
「人が育たない」「安心して仕事を任せられる人材がいない」という声を経営者から聞くことがあります。
しかし、私はそうした話を耳にするたびに、少し違和感を覚えます。
仕事を任せられる人材がいないのではなく、仕事を任せないから人材が育たないのではないか。
今回は、そんなことを考えさせられる松下幸之助氏のエピソードをご紹介したいと思います。

息子さんを信じましょう
1937年(昭和12年)、松下電器に入社したばかりの若者が経理係に配属され、10万円以上もの現金を扱うことになりました。
当時の10万円といえば、現在の貨幣価値に換算すると数億円にも相当する大金です。
若者は、そのことを誇らしげに郷里の父親に手紙で知らせました。
ところが、手紙を読んだ父親は喜ぶどころか、心配になってしまいました。
学校を卒業したばかりの若者に、そんな大金を扱わせて、もし何か問題が起きたらどうするのか。息子の一生を台無しにしかねない。もう少し経験を積ませてから任せてほしい。
父親は、松下幸之助氏に直接、苦情の手紙を送りました。
これに対し、幸之助氏は次のような趣旨の返事をしたそうです。
「親御さんのご心配はよくわかります。しかし、本人は喜んで仕事をしています。それならば、どこまでできるか、やらせてみようではありませんか。息子さんを信頼して、激励してあげてください」
数年後、この若者は父親から初めて、そのやり取りがあったことを知らされます。
そして、幸之助氏の自分に対する信頼を知り、何があっても松下電器に骨を埋めようと決心したそうです。

私は、この話に経営者としての人材育成の本質が凝縮されているように思います。
幸之助氏は、若者に十分な経験があるから仕事を任せたのではありません。若者の可能性を信じ、責任ある仕事を与えることで、その能力を引き出そうとしたのです。
そして、任された本人は、その信頼に応えようとすることで成長し、会社に対する強い帰属意識まで持つようになりました。

私自身も、仕事によって育てられた
このエピソードを読み、私自身の若い頃を思い出しました。
私は大学卒業後、富士銀行に入行しました。
入行2年目のことです。人事部から、大学別に編成される新卒採用リクルーターチームのチーフ、つまり責任者を任されました。
社会人としての経験は、まだわずか1年余りです。
当然ながら、人を見る目が十分に養われていたわけでも、組織を率いる経験があったわけでもありません。
それでも、大学の後輩たちと向き合い、銀行の魅力を伝え、採用活動の成果に責任を持つ立場になりました。
責任者という肩書が与えられた以上、自分が若いから、経験がないからという言い訳は通用しません。
むしろ、どうすれば銀行の採用基準に達する学生を一人でも多く採用できるかを必死に考え、行動しました。

その後、金融市場のトレーディング部門で仕事をするようになり、20代後半には、自己勘定取引で数千億円規模の資金を動かす仕事を任されるようになりました。
自分の判断が会社の損益に直結する世界です。
市場環境を読み、リスクを分析し、決断する。そして、その結果について責任を負う。
若かった私にとって、これほど厳しく、同時に自分を成長させてくれる環境はありませんでした。
今振り返れば、十分な経験を積んでから責任ある仕事を任されたのではありません。
責任ある仕事を任されたからこそ、その仕事にふさわしい能力を身につけようと努力したのです。

優秀な先輩たちとの出会い
もう一つ、私の成長に大きな影響を与えてくれたのが、当時の優秀な先輩方との出会いです。
銀行には、金融市場、企業経営、国際情勢など、さまざまな分野で卓越した見識を持つ先輩方が数多くいました。
そうした方々との会話は、若い私にとって、何よりも貴重な学びの場でした。
単なる知識だけではありません。
物事をどのような視点から捉えるのか。複雑な問題にどう向き合うのか。どのような情報を重視し、最後に何を根拠として決断するのか。
当時は、その価値を十分に理解できていませんでした。
しかし、経営者となった今、あの頃の先輩方との何気ない会話の一つひとつが、かけがえのない財産だったと感じます。
人は仕事によって育ちます。しかし、仕事だけで育つわけではありません。
責任ある仕事と、優れた人との出会い。この二つが重なったとき、人は大きく成長するのだと思います。

任せることは、経営者の覚悟でもある
現在、私自身が企業経営に携わる立場になり、改めて考えることがあります。
それは、若い社員に仕事を任せることの難しさです。
経験の浅い社員に重要な仕事を任せれば、当然ながら失敗する可能性があります。
経営者や上司にとっては、自分で判断した方が早く、経験豊富な社員に任せた方が安心です。
しかし、そればかりを繰り返していたら、若い社員はいつまでたっても成長しません。
ここで重要なのは、仕事を任せることと、仕事を丸投げすることは全く違うという点です。
責任ある仕事を与える一方で、必要な助言を行い、失敗が会社に致命的な損害を与えないようにする。そして、最終的な責任は任せた上司や経営者が負う。
その覚悟があって初めて、部下は安心して挑戦できるのではないでしょうか。
人材を育てるために大切なのは、本人の可能性を信じ、今の実力より少し背伸びをしなければ届かない仕事を与え、挑戦させることです。
そして、時には失敗を許容しながら、その成長を支えることだと思います。

信頼された経験を、次の世代へ
振り返れば、私が若い頃に経験した数々の仕事も、周囲の方々が私の可能性を信じ、任せてくださったからこそ実現したものでした。
もし当時の上司が、「まだ若いから」「経験が足りないから」と責任ある仕事を与えてくれなかったら、今の私はなかったと思います。
だからこそ、今度は私が、若い世代にその機会を提供する立場でありたいと思っています。
企業の将来をつくるのは、設備でも資金でもなく、人です。
そして、その人を育てるのは、決して年齢や勤続年数ではありません。
人は、任された仕事の大きさに応じて、自らの器を広げていくものです。
松下幸之助氏が、心配する父親に伝えた「息子さんを信じましょう」という言葉。
この言葉は、単なる優しさではなく、人を育てることに対する経営者の強い信念だったのだと思います。
若い頃、多くの方々からいただいた信頼と成長の機会。
その恩を、今度は次の世代に返していく。
これこそが、今の私に課せられた使命だと思っています。

※本コラムで紹介した松下幸之助氏のエピソードは、『人間を知る、経営を知る 松下幸之助 感動のエピソード集』を参考にしています。

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